森久保重太郎の調査

1906年12月、パーマースクールオブカイロプラクティックの最初の日本人卒業生は、森久保重太郎(1877~1933)であった。
1906年といえば、DDパーマーがBJパーマーに学校を譲った年である。森久保重太郎について詳しく研究する米国人がいた関係から、東京都多摩地域出身であることが判明。町田市の資料館関係者からも家族関係の情報が届いた。今まで「繁太郎」と記載していたのは間違いで、「重太郎」と判明した。重太郎の兄、作蔵は自由民権運動に関係した政治家。作蔵の長男、善太郎(重太郎の甥)は、14歳で渡米しスタンフォード大学とイエール大学で学び、帰国後は鬼怒川水力電気の常務取締役を務めた。また、これも最近分かったことだが、1916年日本に最初に帰国したカイロプラクターである河口三郎の苗字は、「川口」でないこと改めて訂正しておきたい。